ってなんだ。
といいつつも別に、宗教の話などするつもりも
無いというロック・エンド・ロール。
● とにかくも
熱い「テスト対策」という無給の、いや、無休の補習の日々が始まる。中学生の。
とりあえず今週末から!6月に休みなんてなーい!!!!イヤッホゥ
● 6/3〜6/28で休みは
休日は6/9の1日だけだ。
貴重ー!!
頑張る。
つまり。
よほど宗教上の理由のない人は、塾講師にならないほうがいい。
たぶん、もたない。
じゃあ僕のモチベーションはというと。
● マルヤマ教
というのを、最近考えてる。
それは、
● ヒントは
藤子・F・不二雄さんだ。
のび太の結婚前夜だ。
結婚前夜になってしずちゃんが日和る。
−お父さん、本当に私、のび太さんで大丈夫なのかしら
などと。
で、ヒゲのイカした源家のお父さん曰く
−あの青年は、人の悲しみを自分の悲しみのように悲しみ
人の喜びを、自分の喜びのように喜ぶことができる青年じゃないのかね
のような。
−それが人間にとってとても大切なことだと思う。
だからしずかの選択は間違っていないと思うよ
のような。
● 嗚呼
明日早いんだが書いちゃう。
お嫁が最近、トイレに本を置いてる。
『7つの習慣J』の本。(これは僕が職場の整理の時にもらって家へ持ってきてたもの)
『猫のきもちがわかる本』。
『世界史の知88』(大昔に僕が買って読みきってない。今「その7」インド帝国で停滞)
そして今朝、あらたに
『ドラえもん 大長編 全集』
嗚呼。だ。
痔になるよ。
● のび太の恐竜
を読んじゃった。
で、泣いちゃった。
今朝。
エリアのミーティング(11時〜13時半)を失念したまま。便所で。
11時過ぎに。
号泣だ。会議始まってるよー!
※会議は平謝りの電話しました。先週土曜だったので
※今週も土曜だと完全に思い込んでたのでした。資料とかは一昨日提出してたのに・・
で、のび太の恐竜、どこで泣けたって
ジャイアン「のび太、泣いてるのか?
のび太「くやしいんだよ。しずちゃんを守ってやれないのが。
のび太「あんなにこわがっているのに。なんにもしてあげられない。
恐怖ではない。
ジャイアンが最初思っていた恐怖ではないのだ。
のび太は好きな子の幸せを守ってあげられない自分に対して怒り、涙している。
● ドラえもんには
藤子・F・不二雄さんのやさしさが
ぎっちりつまってて。
本当に、読むごとに、特に映画向けの大長編の原作は
なんか、やさしい気持ちになってしまう。
たかが漫画。
いや、藤子・F・不二雄さんの漫画は違う。あの人の漫画はそういう漫画だ。
藤子・F・不二雄さんの漫画が伝説になってしまう前に
同じ星に生き、リアルタイムでその漫画にじかに接せられたのは
僕らにとって非常に幸せなことだ。
● 丸山教
というのは、自分の中の
ミッションステートメント(自分の人生における憲法のようなもの。『7つの習慣』に出てくる)
をほろ酔いで、帰りの電車でずっと考えてて思いついた話だ。
僕は幸いにも、いくらか余裕があるのか知らんが今のところ
人の幸せに共鳴して、自分も幸せな気分になる。
これはとても快感なのだ。
だって、目の前の人が幸せ、で、自分も勝手に感涙。
自分ひとりでは限界があるが、
自分の周りの人ってほぼ無限。
そんな人が幸せだと幸せなら、かなり楽観的になる。
● で
僕は生徒に対して、彼らが幸せになるかどうかを
何らかのキーを握らせてもらっていることが多い。
彼らが幸せだと、ほんと、泣きそうなほどうれしい。
入塾前に数学0点近かった子が、学校で76点を取ってきて
−先生、次は90点を目標にしますよ
−えー!?それすげーじゃん、高すぎじゃない?
−いや、先生・・・
−?
−それぐらいにしないと、(うつむき加減に顔を赤らめながら)上には行けませんから。
キターーーー!
みたいな感じだ。
入塾テストでなかなか合格点(50点)に行かず、
泣きながら勉強してた
あの寡黙な男が、そんなことを言うのか。
不覚にも涙が流れ出て、僕はしばらく奥の楽屋へ引っ込んだ。
● 丸山教の布教が
今回の学校の定期試験(6中学×3学年×数学理科の2科目=36種類の対策授業)で
(実際にはもっと少ないが)
さらに普及できるよう頑張る。
彼らが、今の(ここ十数ヶ月の)僕のように
藤子・F・不二雄さんがかつて描いてきたメッセージの僕なりの1つの解釈のように
自分とかかわった人が幸せになることで、自身の幸せを実感できるような大人になれるように
頑張る。
休みなど、基本的にない。
原田先生曰く、仕事と思うな人生と思え。だそう。
だから塾講師は、
何らかの宗教上の理由がない限り、お勧めできない職業だ。
今の塾に巡り合えたこと、
それから去年まで全学年ほぼ、全社内でビリだった教室に去年の夏から配属されたこと
そして、彼ら彼女らが笑顔のまま
全社内での順位をジリジリあげながら現在に至ること、
そしてその現実世界に少しでも自分が関われたことに
幸せを感じてるわけだ。
宗教上の理由で。