月別アーカイブ: 2008年6月

宗教上の理由

 ってなんだ。

 といいつつも別に、宗教の話などするつもりも
 無いというロック・エンド・ロール。

● とにかくも

 熱い「テスト対策」という無給の、いや、無休の補習の日々が始まる。中学生の。

 とりあえず今週末から!6月に休みなんてなーい!!!!イヤッホゥ

● 6/3〜6/28で休みは

 休日は6/9の1日だけだ。
 貴重ー!!

 頑張る。

 つまり。

 よほど宗教上の理由のない人は、塾講師にならないほうがいい。
 たぶん、もたない。

 じゃあ僕のモチベーションはというと。

● マルヤマ教

 というのを、最近考えてる。
 それは、

● ヒントは

 藤子・F・不二雄さんだ。
 のび太の結婚前夜だ。

 結婚前夜になってしずちゃんが日和る。

−お父さん、本当に私、のび太さんで大丈夫なのかしら

 などと。
 で、ヒゲのイカした源家のお父さん曰く

−あの青年は、人の悲しみを自分の悲しみのように悲しみ
 人の喜びを、自分の喜びのように喜ぶことができる青年じゃないのかね

 のような。

−それが人間にとってとても大切なことだと思う。
 だからしずかの選択は間違っていないと思うよ

 のような。

● 嗚呼

 明日早いんだが書いちゃう。
 お嫁が最近、トイレに本を置いてる。

 『7つの習慣J』の本。(これは僕が職場の整理の時にもらって家へ持ってきてたもの)
 『猫のきもちがわかる本』。
 『世界史の知88』(大昔に僕が買って読みきってない。今「その7」インド帝国で停滞)

 そして今朝、あらたに

 『ドラえもん 大長編 全集』

 嗚呼。だ。

 痔になるよ。

● のび太の恐竜

 を読んじゃった。
 で、泣いちゃった。

 今朝。
 エリアのミーティング(11時〜13時半)を失念したまま。便所で。
 11時過ぎに。

 号泣だ。会議始まってるよー!

※会議は平謝りの電話しました。先週土曜だったので
※今週も土曜だと完全に思い込んでたのでした。資料とかは一昨日提出してたのに・・

 で、のび太の恐竜、どこで泣けたって

ジャイアン「のび太、泣いてるのか?
のび太「くやしいんだよ。しずちゃんを守ってやれないのが。
のび太「あんなにこわがっているのに。なんにもしてあげられない。

 恐怖ではない。
 ジャイアンが最初思っていた恐怖ではないのだ。

 のび太は好きな子の幸せを守ってあげられない自分に対して怒り、涙している。

● ドラえもんには

 藤子・F・不二雄さんのやさしさが
 ぎっちりつまってて。

 本当に、読むごとに、特に映画向けの大長編の原作は
 なんか、やさしい気持ちになってしまう。

 たかが漫画。
 いや、藤子・F・不二雄さんの漫画は違う。あの人の漫画はそういう漫画だ。

 藤子・F・不二雄さんの漫画が伝説になってしまう前に
 同じ星に生き、リアルタイムでその漫画にじかに接せられたのは
 僕らにとって非常に幸せなことだ。

● 丸山教

 というのは、自分の中の
 ミッションステートメント(自分の人生における憲法のようなもの。『7つの習慣』に出てくる)
 をほろ酔いで、帰りの電車でずっと考えてて思いついた話だ。

 僕は幸いにも、いくらか余裕があるのか知らんが今のところ
 人の幸せに共鳴して、自分も幸せな気分になる。

 これはとても快感なのだ。

 だって、目の前の人が幸せ、で、自分も勝手に感涙。

 自分ひとりでは限界があるが、
 自分の周りの人ってほぼ無限。

 そんな人が幸せだと幸せなら、かなり楽観的になる。

● で

 僕は生徒に対して、彼らが幸せになるかどうかを
 何らかのキーを握らせてもらっていることが多い。

 彼らが幸せだと、ほんと、泣きそうなほどうれしい。

 入塾前に数学0点近かった子が、学校で76点を取ってきて

−先生、次は90点を目標にしますよ
−えー!?それすげーじゃん、高すぎじゃない?
−いや、先生・・・
−?
−それぐらいにしないと、(うつむき加減に顔を赤らめながら)上には行けませんから。

 キターーーー!
 みたいな感じだ。

 入塾テストでなかなか合格点(50点)に行かず、
 泣きながら勉強してた
 あの寡黙な男が、そんなことを言うのか。

 不覚にも涙が流れ出て、僕はしばらく奥の楽屋へ引っ込んだ。

● 丸山教の布教が

 今回の学校の定期試験(6中学×3学年×数学理科の2科目=36種類の対策授業)で
 (実際にはもっと少ないが)
 さらに普及できるよう頑張る。

 彼らが、今の(ここ十数ヶ月の)僕のように
 藤子・F・不二雄さんがかつて描いてきたメッセージの僕なりの1つの解釈のように
 自分とかかわった人が幸せになることで、自身の幸せを実感できるような大人になれるように
 頑張る。

 休みなど、基本的にない。

 原田先生曰く、仕事と思うな人生と思え。だそう。

 だから塾講師は、
 何らかの宗教上の理由がない限り、お勧めできない職業だ。

 今の塾に巡り合えたこと、
 それから去年まで全学年ほぼ、全社内でビリだった教室に去年の夏から配属されたこと
 そして、彼ら彼女らが笑顔のまま
 全社内での順位をジリジリあげながら現在に至ること、
 そしてその現実世界に少しでも自分が関われたことに
 幸せを感じてるわけだ。

 宗教上の理由で。

職場(塾)でPHPを

 つかったり、つかわなかったり。
 昔のテキストを読み込んだりしてる。

● 言うに

 パソコンを何台か買い替えてる人は、
 理系なら迷い無いのかもしれない。

● その頃、というやつと

 その頃のPCはリンクする。

 いま、データの整備をしてる。
 かなり混濁してるのだ。

 バックアップをWIndowsのマウスクリックでコピーしてきてた。

● 簡単にいうと

 いや、どうでもいい。
 何しろ、
 たいへんなことになってる、バックアップ用ファイルサーバ玄箱。

● 軽く

 自分の中で整理してみると。

<1994〜1995>
 ・EPSON 386 デスクトップ(10〜20kg)する。本当の意味で殺人的。
 ・EPSON 486 ノート。出力はカラー。付いてる液晶は白黒。

<1996〜1997>
 ・IBM Aptiva ひたすらAptiva。何kバイトも打ったはず。

<1998〜2000>
 ・IBM Aptiva (またかよ)
 ・恋の歌を無数に打ち込んだよ。今も聞く。

<2000〜2003>
 ・SONY Vaio(ノートに最後はLinux入れようとして失敗)
 ・就職後の曲やテキストデータ
 ・お嫁との思い出

 という色々な年代のデータが積み重なってる。
 いつか
 時系列でフォルダ整理しないとなーなど。

● これから

 いくつかの文献を公表する。
 古巣のプロバイダーが閉鎖すると郵送してきた。CDS-Netだ。
 残念だ。

 そのころ、いやそれより
 ずっと前に
 書いた文章を、ひとつひとつ載っける。

● 『キョウという日の追憶』

 これは、僕が、いつ死んでもいいように、
 当時(1994年前後)最も恐れていた
 「思考が、考える時間が停止されてしまうこと」に対応する遺書だ。

 すなわち、これを書き切った後であれば、僕は
 軽く死ねる。
 そう考えていた頃だ。

 最後、僕は自分自身が「甘えてある」ということをギョウギョウしく語る。

 当時(19才)でそれに気づいて良かったと思う。

● 『キョウという日の追憶』

 以下、あまりに時間のある方のみどうぞ。
 1994〜1995年にかかれた、僕自身による、一種の遺書です。

● 原文(1994年。僕が生まれてからわずか?19年)

・キョウという日の追憶(甘えてある人の描写について)

 最近では何かといけない。

 人にしても、またはそれを取り巻く大気にしても。

 なんで、そうなのだ。何故にみんなそうなのだ。

 そんな風に寝ぼけた頭でくり返す。くり返しくり返して時計を見ると八時五十分を

差している。僕はその時始めて狼狽の何たるかを知った。

 激しい動悸と、根拠のあやふやな嫌悪感がどろどろと赤い音を立てて頭の方へ向かっ

ているのを感じた。

 学校の授業はちょうど今頃だ。

 通学に一時間を余る程掛けなくてはならぬ僕はそう思って愕然とした。

 ちゃんとやろうとは大した大風呂敷だった。その時は出来るだけの気力を持ち余し

ていたのだ。その気力を考えもなしに浪費し始めて久しい。再び同じ大学に通い始め

て今朝で丁度三週間目に入ろうとしていた。

 昨日汗にまみれて着ていた服と長い事洗い忘れているズボンとを両の手に取る。

 着てみると袖口のあたりがまだ濡れていて、少しなまあたたかかく感じる。

 そんなところに薄らぼけた春という季節を感じ、ズボンを足に通した。

 カーテンを引くと横なぐりの陽は薄黄色い数本の線となって、向かいのやる気のな

いくすんだ黒い壁にあたり、色々なものがひっくり返っている絨毯の様子が明らかに

なる。こんなものを一晩中肺の中に入れ続けていたのかと思う。

 大体にして一体、何の為に僕は眠るのか、訳が分からない。

 なぜこんな具合に苦に思いつつ、僕は掃除したり、一向しなかったり、食ったり、

食わなかったり、または電車に乗りかつ降りるのか。

 非常識である、そうは思わなかったのだろうか。

 僕の生活の基盤というものは、今まで生きてきた中で散々に非難している我が家庭、

丸山家にある。

 そんな気が最近している。

 昨日は、演劇というものを生まれて始めて観てきた。

 初め、その発声と身振りに違和感を感じていた僕は、じきにその中に生き、不覚に

も目頭の熱くなるということを知った。演ずる者等と共に額に汗した。

 感動した、感動した、そう言いながら友人等と共にその二、三十畳程の暗室を後に

した。それからしばらく、こんな状態が続いた。

 僕は上気していた。友人等と晩飯を一緒に食うと、その店も出た。

 三人の内僕だけが地下鉄で帰らねばならなかったので、僕は仕方無しに新御茶ノ水

という名の駅に降りた。

 二人とはその店の前で別れた。夜風に吹かれてその時やっと我に返った。

 なぜ、晩飯を食っては遅い電車に乗らねばならないのか。

 僕はその時そう思ったものだ。

 僕にしてみればどこで飯を食おうが構わなかった。いや、実は確かに少し構った。

 しかし、それ程切羽詰まった構い方ではなかったはずだ。

 一人家路に就き、就き終わった時、僕の目の前には薄明かりに照らされた、今のま

まのこの部屋があるのだ。そこで食う飯。

 結局はインスタントラーメンの類なのだ。

 しかし鍋を洗わねばならない。

 鍋は二つある。

 小さい方はいつもよく使うから、たまに洗っていた。

 もう一方はかなり前に何か雑炊のようなものを、人間の真似をして料理なぞしよう

と一丁前に思い始め、作った。しかし余った。量の問題でではない。質が悪すぎた。

 自分で食っていて嫌気がさしてくる。それほどに僕の飯はまずいのだが、店の料理

はうまいので、よく安いラーメン屋などに行ってはそこで古く働く人と仲をよくして

いるのだ。

 その頃作った雑炊は、やがて腐った。

 しばらく帰省して、だらだらとくたびれて帰ってきて蓋を開けたら案の定見慣れた

色が、残った飯粒からにじみ始めていた。

 僕は急に吐き気をもよおして蓋を閉めた。

 それきりだ。

 いや、そう言えばその後かなりの根性をもってして、汚物を適当な所に流し込んだ。

 栓をひねって水を流すと、平生僕の排出するものと同じ場所に向かって穴に吸い込

まれた。それを確認して、肝心の鍋を置き、忘れた。

 しばらくしてへりについた青緑色した米粒等は、固くこわばった。

 それきり臭いも出ない。

 僕はすっかり安心して洗う気を失せていた。

 そうやってラーメンを一人つくり、何もかもが置かれ過ぎている床に、それらをか

き分けかき分け入っていって腰を降ろせば、この世の中が、今目の前にあるこれだけ

で出来上がっているかの錯覚に陥る。そして僕は具合が悪くなるに決まっていた。

 だから、構うのだった。

 それを思えばここで、この店で頼めば出る飯を食って、ゴミはその辺に置き放して、

そんな具合にしてゆくのが一番の得策だった。

 友人は店の前で、何かみんなで食べてからいこうと言い始めたのだった。

 その時僕は自分自身に真実の何一つも口にすることを許しはしなかった。

 一人で食べる飯と、そうでないものとの区別は、東京に出てきて二ヶ月程で見分け

る術を会得した。

 しかしそれから六ヶ月程経ったある日、僕はそれら全ての感覚を失った。

 書いた通りの感性をもって、ゆうべは飯を食い、電車に揺られた。

 自分の人と飯を共に食う事の理由が、二人と食い違っていた事は明々白々だった。

 帰り道、時計を見ると、もうあれから三十分程も経っている。

 下宿に着くのは更にもう二、三十分かかると見る。

 なぜか腹の辺りに、すすきの穂が月の下、嵐の前のそよぎゆく風に揺れるが如きい

らだたしさを感じ、僕は電車の中を歩いて行ったり戻ってきたりする空想を始めた。

 丸山家ではこんな時間にうろちょろすることを許しはしない。それはとてつもない

罪悪であると言う。僕はそれを信じ込んでいて、それはどうかなと思い始めたのは、

すでに物心というものが自分の腹の中で大分落ち着いてしまってからだった。

 はやく着けばいい。乗り換えなくてはならなかったから、その電車もすぐに来れば

いい。しかし全てが逆に動いた。

 それから地上の中目黒の駅に顔を出すまでの五分という時間は、今まで感じた事も

ない程に長く感じられたし、いつものように乗り継ぎの電車がホームに入ったのは、

僕がいいかげん夜の曇った街並みを見るのに飽き飽きしていた頃だった。

 しかしここでやっと都合よく、来たのは鈍行であった。

 つまりは、各駅の停車である。

 この間自由が丘の駅から坂を登った辺りの下宿の近所まで来ておいて、僕には一生

掛かっても理解に苦しみ続けなくてはならないような哲学を持った団体につかまり、

情けなく金を払った。その上店に逃げ込んだ。

 不良どもはそんな僕の背中をせせら笑って、そのまま逃げるように夜の明かりの中

へ消え失せた。店の主人の忠言に従って警察に届けた。

 巻き上げた側の人間は未だ足をつけない。

 僕はその晩布団に戻っては悶絶した。恐怖が、蘇ってしまう。

 その時僕は一瞬ではあるけれど、数週間にわたって忘却のかなたこなたに好き勝手

漂わせておいた生への執着という、懐かしい響きの感情に襲われていたのだった。

 その方が、まだ良かった。

 それでゆうべは自由が丘より一つも前の駅で降り、人気の幾分多いそちらの道を経

由で帰ろうと策を巡らしていたのだ。

 急行では自由が丘の一つ手前でとまらないのだ。自由が丘まで行ってしまっては、

また暗闇で恐喝をされるような気がして困る僕は、各駅と聞いて少しほっとした。

 その一つ前の都立大学駅とかいう名の駅に降り、予定通り乗り越しの精算機に切符

をかけると僕は出て来た新しい切符を手に改札をくぐった。

 しかしである、その時僕が目の前に見たものは、先頃よりまぶたの裏に滞っている

あの男達の内の一人の姿ではないか。

 それでも見間違え、滞り間違えを祈り目の前を曲がる。

 情けなく思ったが、一旦は向いていたその幾分暗い道への足を翻すと、僕は表の遠

回りとなる大通りの方へと続く側に歩いた。

 途中に交番があって、夜の中へ部屋の内の檸檬色の蛍光燈の光が見えた。

 駐在さんが、こんな世を反映してか半分身をのりだして道ゆく人を無差別に見張っ

てくれていた。その灯りを背に歩く僕は寂しく思った。

 殺してやろう、そして僕も死んでやろう、いつからか、そんな風にまた自棄な考え

が頭に幾つか浮かんだ。情景もその分だけ数える。しばらく行って後ろを見たが、眼

鏡を外した僕には数人の道ゆく人の影しか見えない。

 その中に、あの男が仲間に合図した後、僕をつけて歩いているかも知れない。

 連中、一体どういうつもりだ、こんど掛かってきたら絶対。

 全員にというのは無理だろう。あの時だって六人は優に居合わせていた。

 せめて一人、息の根を止めてやろう。

 そんなせっかちな空想をやめに出来たのは、悲しいかな我が腐敗した下宿の扉を閉

め鍵を降ろした直後であった。

 それまでの緊張が、張った糸を切ってゆくように次々地べたへと膝をつく。

 灯りをつけるといつもにも増して部屋は散らかっていたが、もはや僕はうろたえな

かった。

 恐怖のみが消え去った後に、不似合いな強い横暴さだけが、腹の中にどす黒く居座っ

ていることに無頓着だった。

 留守電の電光掲示を覗くと二十二件という伝言数が表示されていた。

 僕は無性に腹が立った。それは尋常ならざる数字であった。

 二十二と言えば、うちの番号を知る友人の数よりも多い。

 一体誰がくだらぬ事を吹き込んでおいたのか、それが僕の勘に触った。

 再生のボタンを押すまでもなく、御丁寧にも留守電状態を解除すれば、それまで溜

め込んでおいた伝言を一気に吐き出す仕組みになっていた。

 僕は一つだけつけた蛍光燈の下で、それらを耳に入れながらぶつぶつといやらしい

独り言を言っていた。ひどい侮辱の言葉を並べ中傷の限りを尽くした。

 それですっとするかと思えば、予測は大きく外れ、僕の心はいよいよ乱れ始める。

 その後いの一番に掛かってきた電話には、ひどいものだった。

 言いたい風に言い放った。

 友人からでなくてよかったと、密かに長い息を吐いた。

 電話は実家からであった。

 まず始めは母親が出ている。いつものことだった。

 親父は僕が苦手らしいと、おばあちゃんがいつか言っていた。

 僕も親父は苦手だった。

 それで始めは母親に掛けさせるのだろう、そうタカをくくっていた。

 しかし僕は、その晩の電話はいつも通りの親父が言い出したものではないことを知っ

ていた。二十二件の内の四、五件はおばあちゃんからであった。時間にすれば半分以

上を占めていた。

 おばあちゃんはその内の一番尾っぽの伝言で、今夜辺りずっと掛けてなかったから

家中で電話をやるかも知れんなぁと、得意の転嫁を絡ませて予告をしていた。

 案の定母親はおばあちゃんの進言によって掛けたの旨を口にした。

 僕は怒鳴る直前までいった。

 様子を聞いてか親父は電話に出なかった。そういう親だと思われたくないのだと、

これは前に母親が、本意かどうかは知らないが言っていた言葉であった。

 母親はおばあちゃんの方の電話に回すと言った。

 僕はさらに汚く悪態をついた。

 今、一日経って思い返すと、自分がかなりひどい人間なのではないかと思われる瞬

間がある。しかしそうやって省みる思いのプロセスは人間を早い死に追いやるのだそ

うだ。

 この手の人種は長生き出来ない、すぐ腫瘍が出来て逝っちまうと言われた。だから

自分自身に腹が立つのである。

 一通りのことを、こんな具合に思案していると既に僕はカバンを肩に下げ、それに

少し気をはらいながら駅への道を歩いていた。

 この辺りから徐々に意識が薄れてゆくのだ。

 それでもまだ、周りが見ず知らずの他人ばかりの内はいい。

 そういう人ごみの中に押され流されながら僕はいい顔をしていた。

 鈍行から途中で急行に乗り換え、横浜の駅へ着く。

 気味の悪いほどにすいたホームは、今到着した電車の扉がひとたび開けばどっとい

う音を立てて瞬時に後ろを振り返る事すら困難な程混みあう。

 人ごみの中で誰かがちきしょうと言ったのが聞こえた。

 僕は笑っていた。

 空は曇っていて今にも雨が降り出しそうな按配であった。

 その日まで僕は、こんな天候をちっとも好きになれなかった。

 その時もまだ嫌っていた。嫌な気分になるのである。回復法は一応知ってはいた。

 その雲の上の宇宙の空虚を思えばいいのだった。その辺にはまだ旅客機が飛んでい

るかも知れなかった。その層は決して曇り空に悩まされることはなかった。飛行士が

いい職業だと非難をかうような妄想を抱いている。

 だからやはり僕はその辺りに広がる空虚を見ていた。見ながら流されて歩いた。

 やがてバスに乗った。

 あんな事件ばかりが起きているから駅には警官が大勢歩いていた。

 そんな時、僕は急に自分が偉くなった風な口をきくのが好きだった。

 ああやってみんなで制服を着て歩いている警官の他にも、きっといるに違いない。

例えばそこの柱の所で時計を気にしている人。あの人は私服警官に決まってる。そう

やって制服の方に気を取られている盗人は彼らに捕まるのだ。

 しかし直視することは出来なかった。それだけ自分の仮想に自信があったのだろう。

 変に意識していて挙動不審で引っ張られてはつまらない。

 だから僕はそのまま、平生の通り階段を降り、バスのターミナルへと向かった。

 学校に着くとまだ一時限目の授業が終わらないでいるせいで、構内はしんと静まり

返っていた。午前中だというのにやけに暗い棟に入ると突き当たりが喫煙所だ。

 僕はそこに腰掛けて煙草を一本取り出した。

 最近では大分手際がよくなったと自負している。

 そうやって辺りを見回した。

 自分と同じ人ばかりが数人うろうろと、または一集団となってわらわらといるので

僕は安心して目を細めていた。

 背の方が大きな窓になっていて、三畳程の狭苦しい汚い中庭のようなものが透けて

見える仕組みだった。大学の方面ではついさっきまで雨が降っていたようで、止み終

わったばかりの、その灰色に霞んだ景色はあまり心地好くはなかった。

 転じて廊下の側にはただそれに沿ってつづく薄汚れた白い壁と、所々にドアがあっ

た。時折四角いケースを脇に挟んで、変に顔色の悪い学生が行き交う。いたって無口だ。

 知る人は一人としていない。他人の中に包まれている。

 僕はやっとほっとしたのだった。

 横に今腰を降ろした学生も、独りだった。

 けれど彼らと仲良くなることはなかった。

 仲良くなる必要はなかった。彼らの中に居て根拠の無い安堵感に浸れれば。

 やがて時間がきたようでその扉の内より押し寄せる潮騒の如き人のざわめきが徐々

にその声を増し始める。

 教室の内からは見た覚えのある者の顔が覗いた。

 友人である。

 ここに於いて僕の感覚はいよいよもって失跡の極みに達した。

 僕は出来うる限りお道化た。

 その場のみのしのぐかのような、道化。それが好きな人と化し、僕の本体は跡形も

なく風化してしまうのである。やはり人といるといいよなぁ、そんな事を真顔で議論

する程に僕は堕落してしまう。そりゃ当たり前だろ、そう言われたりもする。

 それに頼りさえする。

 それからの時間はあるような、または無きような、綿菓子の甘い春雨に打たれて縮

んであるかのようなものであった。

 ふわふわしていて一向はっきりしない。

 これが世間の時の流れなのだ。

 これが生まれ死ぬるまで僕等が過ごし続けるべき世に吹く風の色なのか。

 笑顔を強要され、まるで失望していた。

 死への恐怖。またはそれの出ずる根源となる、生への執着。

 それをこの世に生を受けた途端に脳髄に植え込まれた僕は。

 死ぬのは怖いさ。心の中で僕は自身にうそぶいた。

 そして腹の中ではまた、あの日のいまわしき不良どもの表情、その言動の流れゆく

様子というもの、それらを目の前の暗黒の動めきから、随時連想出来ていた。

 今度何かあったら、命あってのもの種の、そうそのもの種の存在理由を問えばいい。

 人は愛される為に生まれ、また愛するものと巡り合い扶助する為に生き続ける。

 そう言った外国の人がいる。

 学者がうち恋しがるなんとか賞という下らぬ賞をもらってしまって、彼女はとても

気の毒だと最近思い始めていた。

 それはどうでもいいのだ。

 問題は、愛する意義をも忘却してしまった場合である。

 その頃僕はそんな具合に考えていた。若しくは考え違いだったのかも知れない。

 授業といえばもっぱら一般教養の科目の方が身に入った。学生は縮めて般教と呼ぶ。

 自分で選んでおいて無責任だが、専門科目、すなわち理系のかなめたる数理等には

全く興味が沸かなかった。

 くそつまらなかった。

 数式をいじくりまわし、単位はあげますよと言われて胸をなで降ろす学生に腹がたっ

た。または無味乾燥な、人間の存在意義を理解していることを前提として、または無

視して、自然の道理をこねくりまわす科目にも疑問を抱きつつあった。

 一般教養では哲学と倫理学というのをとった。

 余程充実していた。

 教師はみな生きていた。教材もまた、まな板の上にありながら動き続けてあった。

 そんな様子を見るにつけ、自分の本体の再び安らぐ様を見るにつけ、僕自身の実体

がどこにあるのか、分からなくなってくる。

 なんだ、本体はこっち側にあるではないか。

 その内にそう思って他の生徒と共に教室を出ると、いつの間にか雨は本降りになっ

ていた。

 昼に、屋外が暗い。

 それが、事実を申せば、僕には耐えられなかった。

 帰りのバスを待っていて、遂に一つ前の感覚がむくむくとその胴を持ち上げた。

 僕は妙に威張っていた。

 情緒がゆらゆらとしていた。

 そんな日が長く続いているのだ。

 俗で口惜しいか。そんなに口惜しいか。大学に総なめに落とされて、それからずっ

とこんな具合か。それがそれ程までに口惜しいのか。

 そう自問する僕の頬を、めいっぱい殴り飛ばしたくなるほどの嫌悪感を抱いて見据

える。

 結局ここまで書くのに二日要した。

 今の文で三日目である。パソ通の小説ボードに以下の文章を上げた。

 学校へ行ってきました。

 今日は一限、英語だけでした。

 でもって横浜駅で辞書とテキストを不所持な自分に気付きました。

 なもので学校に着いてから、生協が開くのを待ってました。

 段々ダークな気分になりました。

 開くまでにまだ一時間ほどありました。

 考えたら、待っている内に授業は終わってしまいます。

 それでもいい、そう思いました。

 適当にうちの本棚に入れてあった、買ったきり読んでない本の中から一冊抜いて

おいたのを思い出しました。

 カバンから取り出して、カバーを剥ぐと太宰治の本でした。

 本格的にダークな気持ちになりました。

 生協は二階です。

 店の前にはベランダの広いもののような所があって、自販機とベンチと日除けの

屋根がありました。

 ベンチに座ると、今登ってきた外の階段が目の前でした。

 その真下には便所があります。

 見ると鉄柱が高い所まで伸びていました。

 きっとその便所からです。

 電灯が四方に付いているのですが、きっとその鉄柱の先っぽに付いている穴から、

排気をする、そんな汚い用途の為に立てられたものです。

 電灯は、言い訳で付いているにすぎませんでした。

 仕方無しに煙草をふかしふかし、太宰の小説を繰りました。

 もう授業の始まる時間であるのに、一人の女性徒が僕の裏にあるもう一方の階段

を登って現れました。

 僕は胸の鳴る音を確かめました。

 無論、こちらは理系の棟。

 いろの多様な女性が多いはずはありませんでした。

 みんなまじめで質素な生徒でした。

 しかしながらその女性徒は、こんな時間に二階の生協の前のベランダに現れ、そ

の淵から下の様子を伺っている。

 もう誰のいるはずもないのに。

 だからこそ僕はどきりとしました。

 同じ人なのか。

 きっとあのカバンの中には人間失格でも入っているに違いない。

 いい天気なのに、わざと具合のわるそうな面持ちでここへ来たに違いない。

 みんなどうせ太宰かぶれだ。

 そうやって自分を笑っていました。

 その内に僕の妄想は更にこう仮説を立てました。

 普段は今僕の座ってしまっているベンチに腰掛けているに違いない。

 今朝もそんなつもりで登ってきたのだ。登ってきて少し歩いて、角を曲がればこ

れこの通りだ。

 つまらなそうな男が、自分の席に座っている。

 はやくどかないものか。どうせ薄っぺらな太宰かぶれだ。

 そう思いながら、彼女は背中の様子を伺っている。

 僕は勝手にそう考えました。

 ならば話が合うではないか、面白い。

 いよいよもって面白い。

 太宰をいきなり否定してみてはどうか。

 僕がこんな具合ににやにやとしていると、前方で二つの声が響き合いました。

 僕が顔をあげた時には既に、彼女の姿はありませんでした。

 ただ、しばらくの間の期待外れに軽い靴音の後、下の方で異なる二人の女性の声

がしていたのでありました。

 僕は己を恥ずかしく思いました。

 ただの待ち合わせ。

 そしたらそこに危なそうな男がにやけていた。

 気味が悪いから、なるべく関らないようにと遠くたたずんでいたのでした。

 しばらくは照れ隠しで、太宰の本の内の何ページ目かを眺めていました。

 しかしがーがーと声がするので見てみると今度はあの鉄柱の上にカラスがとまっ

て、こちらを向いていました。

 追い払おうと思いました。

 放っておけば、いずれ自らその姿を消す。

 僕に先立つに決まっている。

 その後の、ふと目を伏せ上げた瞬間にカラスのいなくなっている前方が、とてつ

もなく寂しく思われたからでした。

 それならいっそ。

 そう思ったのでありました。

 しかしその必要はありませんでした。

 一度だけ本から目を上げると、そこにはもうカラスの姿はありませんでした。た

だ、遠く構内に茂る森の上の淡く青い空に、黒い点々が見えました。

 その中に、あのカラスはいるのでありましょうか。

 いませんでした。

 ぴゅうと視界に現れたものがありました。彼こそが今さっきまで僕にがーがーと

うるさく誘っていたカラスでありました。

 他のものより少し濃い黒色をしてありました。

 風が強く吹いていました。

 カラスは一旦はそれに逆らって飛んでゆきました。

 しかししばらく風にその進路を妨げられると、身を翻し、その風に乗って今来た

道を翼を広げたまま下っていってしまいました。

 引き返すのはいかにも容易でありました。

 きいていたよりずっと、カラスというのは間抜けなものだと思って見ました。

 風はなおも吹いていました。

 空はカラスを吸い込みました。

 跡形もありません。

 ただ、遠くに淡緑の霞を横たえたあの木々は、よく風にしない、きらきらとよう

よう白くなりゆく朝陽を、僕のいるこの日陰のベンチまで反射していました。

 こんな具合であった。

 今日は、それだけの日であった。

 ただ、帰ってきて掃除をしたら少し気が楽になった。

 ごみ箱を袋の中へひっくり返したら、随分懐かしいものが出てきた。

 いや、実はなにも無かった。そこにあったのはラーメンの抜け殻、友人のこの間

食べていった。

 そしてコーヒーカップを割った。

 無造作に拭いていたら、その内にタオルから転がり落ちたのだ。

 僕は足に傷の負っていないかを迅速に検査した。

 いや、実は割ってはいない。

 タオルの中でいい加減に転がしていたら、そんな思いにかられた。

 この場で僕が少しでも手をゆるめれば、カップは落ちて粉々になるだろうか。

 そんな気がした。

 すうと空中を漂い叩きつけられた先で微塵に割れる、そんな様を想像した。

 その中に、時間というものの普遍は存在しなかった。前後して落ち、音もなく砕

ける、その不安定が気に入った。

 そうして目をおろし僕は手の内のコーヒーカップを見つめた。

 本当に、割れそうだった。

 レモン汁を飲むのを好んだ。

 最近の趣向である。

 「これをね、疲れて帰ってきた時にでもきゅうと飲むと、一日の疲れがぱぁと吹

き飛ぶんですよ。」

 学校の帰り道にいかにも一日の疲れをため込んだような顔をして、近所の八百屋

の軒先に現れるとおばあさんが一人出てきて案の定のことを言った。

 ある日のことである。見るとレモンが沢山あまっていた。二回ほど値段は書き直

されていた。

 僕が納得せずにいると、その顔をのぞいたおばあさんは次にはこう言った。

 「起きがけにね、飲んでもいいんですよ、やる気が出ますよ。」

 今度はそう言って僕の様子をうかがっている。

 どうせ何か柑橘類でも買おうと思って店先に足を入れたのだ。酸いければ別に何

でも構わなかった。

 しかしここのおばあさんは何か心得たものがある。この間もそうだった。

 僕が単価なんぼのじゃがいもを一つ二つ買おうかと寄ったら、学生さんならこれ

なぞどうですかねと言って、五、六袋残っていた沢山じゃがいもの入ったビニール

袋を持ってよこした。学生さんならこれぐらい多い方がよかろうと言うのだ。

 しかしもしも逆にバラ売りの方が売れ残っていたら、こう言ったに違いない。

 「一人暮しのかたにはバラの方がいいでしょう。」

 案の定、そのジャガイモの使い残りはうちの日陰で互いに長い芽を相手の身体に

巻き付け半分しおれている。

 じゃがいもも不憫なものだ。店先で腐るか見知らぬ冷暗で朽ちるか、どうせ結末

は同様だったのだ。

 色々考えていて返答をせずにいると、やっとおばあさんは焦りの色を濃くし、

遂にへまをした。いつ飲んでも身体にいいものはいい、そう言い放った。それなら

初めからそう言ってくれればいいというものだ。

 僕は苦笑して、いえいえ今日帰ったら一つしぼります。明日も出掛ける前にしぼ

りましょうと言った。おばあさんは「毎度。」と言って笑った。

 いい、顔だった。

 そうやって何も気付かぬふりを装って僕は三度その八百屋に足を運んだ。

 今度は違うおばあさんが出てきた。三度目もその人だった。

 レモンをくれと言ったらすぐに袋に入れてくれた。

 そういえば昔ミカンを多く入れてくれたこともあった。僕は気を良くしたのを覚

えている。そんな具合に持ちつ持たれつなのだ。と思った。

 しかしよくよく思い返せば、それは冬の終わりの日のことだった。

 みかんの値札はさんざんに書き直された果てだった。

 レモンを半分に切り、力づくでしめ上げると口からだばだばと汁が流れ出す。

 それをカップに取って蜂蜜と熱湯でこしらえるのだった。

 煙草を吸って麦茶のパックを持つと、意表をつかれて右の腕はひょいと上に上がっ

た。飲み物を他にあたってみたが、ない。

 見れば向こうの台所に、黄色い一かけらがあった。それでコーヒーカップを探す

と目の前でレモンの種が底にかわばっているのが見えた。

 洗わねば、そう思ってカップを手に取り洗面所へ行った。

 僕は割らずに戻った。

 口の領域を遥かに越えた部分であまりにカラカラとした部分がうずく。

 僕はすぐに作業に取り掛からねばならなかった。

 半分に切られていたレモンを手にとるとしかし、既にそれは干からびてあった。

 時間はやはりだらだらとしてとどまることをしない。

 その内逆に動きだすとか何とか言った学者がいたらしいが、不幸にも彼はそれを

自分の目で確かめる前に朽ちたそうだ。

 こんな具合に書きながらも、実は僕の心は動いていた。絶えず。

 もしかしたら、えらい勘違いをしているのではないか。

 この頃僕はそう思っていた。やはり思い違いなのかも知れなかった。

 曇り空を前より好んで仰ぐようになったのも最近のことだった。

 何度読み返してみても、僕はべたべたに甘えている。

 甘えている。

 そう言うらしい、世間では。この状態の事を。

 世間でそう言われているのだから、世間向けに生きる人間という生き物はその箇

所で議論を止めておく必要がある。

 浪人性の人とかいうのを書いて書き終わって、それから気にしだした話である。

 だからそれ以上のことは言わない。

 甘えているらしい、僕は。

 一体何にか。

 実はそれが丸山家である。

 なかなか巧妙なやり口だ。ここで先に茂みに入れておいた伏線を回復させる。

 …という言い回しは、白状すれば太宰の小説を読んで覚えた。

 嫌な、人だった。読まなきゃよかった。

 太宰で思い出した。

 この間ラーメン屋さんで本を広げていたら、何の本を読んでるんですかと聞かれ

た。しねもねと得意の逆効果らしい前置きの後、僕は太宰だと言った。

 「あぁ、太宰クンね。なるほどなるほど。」

 この間飲みに連れて行ってくれたその、今の店長よりずっと前から鍋を握ってい

るおじさんは、僕に意表を突かれて、あごを撫でた。

 そんな莫迦なと思われただろうか。

 僕は太宰を読んでいたのだ。

 しかしそんな情動はどうでもよかった。

 僕はクン付けで、しかもそのクンがカタカナであったのが面白かった。

 何というか、それを超越するだけの齢、というものはこの世に存在するらしい。

 確かにそのおじさんは太宰クンと呼んでいた。

 「彼もまったく。云々。」

 という後続が耳に響くような思いがした。おじさんはそこまで喋らないでおいた。

 僕は甘えているのだろう。太宰と同輩なのか。

 その一文が、高校時代僕に提出できなかった太宰治の感想である。

 そうして二、三日の安息が訪れた。

 予想通りそれは長くは続かない。今日、大分自分に都合が悪いことになったと知っ

た。帰りたくない帰郷。

 なぜかは分からないでいる。本当は分かっているのだが、それは何十年若しくは

何ヶ月の後かは知らぬが、僕の寿命の尽きる日に言い尽くそうと思う。

 帰りたくない。今は。

 数十ヶ月、故郷を離れて、途中本格的にホームシックに掛かって遅れて届いた遺

書なる感情のみの小説なぞを書いて、急にまた東京暮らしに慣れてしまったりして、

その後もいくらかしねもねして今に至っている。

 結局、何一つ解決していないのだ。

 大学に落ちたから肩身が狭かろうとか、そういう問題ではない。

 人と会うのが、苦になったのだ。

 先に書いたとおり僕は人が好きである。

 それは自分にとって未知のものを持っているからなのだ。

 しかし人と触れ合う時間に比例して、大体謎が知れてくる。

 二行に書いた理由をもって人と接する時、相手がただの人間だと分かった時点で、

僕にはそれ以上付き合う理由が失われることが多い。

 あるいは、価値観の移動。

 環境の移動による。

 詳細は恐ろしくてとても言えない。

 さんざん楽しんでおいて、その後音沙汰なしという場合の理由の全てはそれによっ

ている。

 そんなこんなで散々解明と移動がなされた今、後に残していた故郷というものは、

たぶん色あせて僕の背後に広がっている。

 皮肉かな、その背後は以前の自分が汗して形成してきた建築ばかりである。

 移動する前の、僕が。

 その日が近づくという思いで、ゴールデンウイークだか何だかと世間が騒いでい

る中、僕は一人嫌な心持ちであった。

 大学に、遅刻した。

 友人は僕を見付けるとにやにやと同席の者と一緒に笑った。

 二時限目は解析学という学問であった。

 その最中にノートに少しメモしたものがある。

 最近の憂鬱の蓄積を全てこのテキストに平行移動したく思うので、こちらも以下

に引用する。

 大勢が大勢でもって暇をもてあましていた。僕は1時限に遅刻し2時限からの出

席となったが、しかし1時限を受けた生徒の顔の何と憂鬱そうなことか。なぜそん

な暗い面持ちになるために、自らすすんでその魂を削るのだ。やがて教師がドアの

外から顔を覗かせる。準備は、できているな、といくつかの確認を済ませると、教

室の前に設置された壇にのぼって中央で上着を脱いだ。

 大学に入るとこの辺りの濃度が少し弱まっているのに誰もが気付く。すると、そ

の弱まった濃度に元気づいた学生たちは後ろの方にかたまっては歓談にふける。或

る者はこうやって、その数学の授業には不似合いな、やけに言葉の多いノートを作

成し始めたりもする。

 教師が、丸めた服を教卓の上に放ると自然扉が閉まった。

 ヤな事を思い出した。大学の教授にして授業中前後の扉を絞め続けておかないと

気が済まぬ人がいたのだった。僕は不安にかられたのを克明に記憶している。一体

何が始まるのか、頑なに閉めさせる扉なのだ。その内側ではさぞかし飛んでもない

儀式の類に教授がふけるに違いなかった。

 しかし扉を閉めた直後、急に上気した教授は黄色いチョークをもって、黒板に九

十分に渡ってぐちゃぐちゃしたくずし字を書きなぐっては消し、消しては上書きし

ただけで、ベルの放送で途端に元気をなくして動きを止めると、そのまま字を消し

もせず、顔色の悪い猫背で外の世界へと姿を消しただけだった。

 僕は黙っていても憂鬱なのだ。

 毎日部屋でぐったりしている。

 彼らはそれを降り払って学校に来てはみるものの、結局うなだれる為の四コマな

いし五コマを湿った椅子の上で過ごす。

 まったくもって謎だ。

 僕は教室に入ってそう思ったのだった。

 猟をしていた時分、きっと人はもっと笑っていたに違いない。

 豊かになるために、というような事を聞いたりもするが、一体その分嫌な思いを

しなくてはならないとはどういう了見なのだろうか。

 狩りから村落、王国、近代、やがて大戦争と学校で聞いた。

 自然、人間の希望する通りに人間が動いた結果だという。

 僕は甘えているのだろうか。

 僕は甘えているのだろう、世間ではそう表現するらしいけど。

 夢を見たのだ。

 僕は癌だと告知される。故郷の近所にめぐらされている裏の細い道の中途でだ。

 いや、しかし仕方あるまい。僕は一匹の野良猫だったのだから。

 しかししかし猫でありながらも僕は人の情を持ち合わせていた。それがかえって

厄介だった。

 別に癌でなくたってよかった。到底助かる見込みが無い、すなわち己が予期して

いた寿命というある長さをもったもの、それが或る一言によって極端に短くされる、

そういうものが目の前にドカンだ。

 僕はしばらく思案した後、よほど悲観した。

 もってあと三月ばかりであろう、よく言われる数字だ。

 どうしようかと涙も枯れ果てた頃、後ろをふと振りかえればそこには一匹の、黒

猫。にゃあとなきやがる。

 気がつくと僕は猫ばかり乗ったバスで実家のすぐ横を通り過ぎていた。

 それが、確かに通り過ぎているいるのだが、風景は後ろへ残影を残してうつろい

ゆくのに、一向実家の横の短く細い道を終わらないのだ。

 そういう中で、目の前にたたずんでいる大学の友人に酷似した猫に、僕は聞く。

 猫というものは、おおよそ何年ぐらいの寿命なのか、と。

 答えて言うにはせいぜい五年程。

 五年は事実でないかも知れない。しかしその友は僕にそう言って聞かせたのだ。

 五年…。

 なんとも短い時間を、猫は生き、やがて土へかえるのだなと印象を持った。

 それはもちろん人間という生き物を基準に考えた場合である。

 犬猫の類は大抵命短く、亀鶴あたりは概して長命であるとする。

 それをあと三ヶ月なら贅沢な晩年だ。そう考え直したのだった。

 そしてその時僕はにわかに気が大きくなったのだろう。

 人間の分というものをわきまえた者であれば、きっと必然に主体に振る舞うもの

だろうとその時思った。どうせいつか尽きる命。それを燃やさないというのは資源

に申し訳が立たぬ。

 故に燃やすのだ。

 何にか知れない。

 その時の僕は酔いどれと幻覚に燃やそうとしていた。

 うちの近所の畑にまたたびの小木があるのを、僕は知っていた。

 だからその友に誘うのである。それを盗もう。またたび酒を醸じて飲まないか、と。

 またたびの葉を柏でくるんでその先に火を灯せば、さぞかし艶めかしい燻しが俺

等にきっとよだれを垂らさせるだろう、と。

 しかしその友はそういう話を好まなかった。

 命賜りし者のみ必ず朽ちるべし。楽しみてこれを興じん。我等を救済せよ。

 そう言う僕の顔をいぶかしげに覗きこむと、最近の思想家にそんな事を言った者

がいる、と言った。

 僕は苦笑して、あの人はそうじゃない、地獄をまたたびで見せたのさと言った。

 僕はまたたびで…。

 またたびで?何を見ようとしたのだ。

 六十四の曙と暁を見られぬと知った僕は。

 その世界では、僕の前世というものの自覚があった。

 うすら汚いその猫の前世こそは丸山自分であった。死因は肺炎。

 十八の若さで一旦この世から身を引いて、ほとぼりが冷めた頃に再び顔を出した

所が末期癌の野良猫である。なんとみじめなことか。

 僕は同情のあまり意識の届く前に涙が目頭を熱し、ぽろぽろと頬を伝わってこぼ

れ落ちるかの思いにかられた。

 長い事生きて来た人というものは、いよいよ道の果てが底無しの崖であったと知っ

た時、どんな顔をするものなのだろうか。

 不幸にもその猫の顔色は僕には見えなかった。

 一転する。

 横浜駅でまたも何か騒動があったということで、両親から留守電が入っていたのだ。

 電話をかけると母親が出る。いつもの通りである。

 そのつもりでいた。しかし今日はおばあちゃんが出たのだった。

 恐らくは居間に集まっていたのだろう。

 やがて母親に代わり、僕は幾つか愚痴をこねた後に泣いた。

 有り難く思った。

 やはり丸山家には世話になる。丸山家の方は方で世話が焼ける事だと思っている

であろう、と思う。

 ここまで書いた時、電話が突然けたたましく鳴った。

 友人からの内容の無いものであった。こういう書き方をすると誤解を招くかも知

れない。

 その友人と僕とは互いが中学生である頃に知り合った。その頃の話題は尽きぬ。

 しかし高校に上がった辺りから徐々に縁が遠くなり、今ではしかし毎日、こうし

て内容の無い電話を掛けてくるぐらいである。

 彼の周りがその後どのように変質していったか、僕は知らない。

 どのような高校時代を経、大学に進んでどのような人間を演じているのか。

 同じように。

 内容の無い、と書いたのはその電話の中に世間や自らの身の、そんな会話が皆無

であるという事を指す。中学の頃の思い出すら、尋常な形で彼の口から発せられる

ことはなかった。

 八割方相手が延々と鼻歌を歌う。やがて歌い終わると言葉もなく電話を切るのだ。

 会話は無いのが常である。

 残りの二割は偽装である。

 彼は一人春の夜を明かす未亡人であったり、または日本語の通じぬ外国人であっ

たりした。彼が好んで擬するのは中学校の頃僕が片思いを寄せていた相手と、高校

の時恋文まで出しておいて失敗した相手の、女の子であった。

 僕が受話器を上げるとやにわに彼女等の声色が無数の穴からにゅと出てくるので

あった。

 僕のそれらの経験は、彼もまた同種のものを共有する所である。

 それ故彼は好んでその古傷をくすぐる。

 それ故彼は僕のもう一つの経験の事を話したがらず、聞きたがらない。

 自らの秘密は滅多に明かさない。

 今考えれば、彼のやり方の方が正法であったような気さえする。

 少し、寂しい。

 電話により中断され、再び僕は地の底を見た。

 どうして自分はこんなに情けないものかと考える。

 昔はもっと自信を持っていたような気がする。いや、正確にはかぶれていた。

 それが大学に落ちて不意になった。

 多分、そういう訳なのだろう。

 様々な公立大学名は一発で変換された。妬んで「よここく」と打って変換させ

てみた。

 驚いたことに、これも変換された。

 僕が自分で単語登録しておいたのかと思って、それを検索するソフトまで持ち

出して見てみたが、ない。

 既に辞書にあったようだ。ついでに「よこはまこくだい」を変換させたが、こ

も出た。正式名称もやはり、変換された。

 こんなことに一喜一憂する毎日である。

 酒を飲んで、薄らぼけた様で毎日暮らせたら、どんなに気が楽なことかと思う。

 そう言えばこんなこともあった。

 プログラムをアップしたら、これがバグだらけであった。

 どうしようもない、不良品。

 それに幾つもの夜を削っていたのだから世話はない。

 自分で自分の愚かさを思い知る事となった。その愚かさには当然かいかぶり過

ぎていた自分への激しい嫌悪感も含まれている。

 しかしこの出来事だけ、バグのあるソフトを精魂込めてつくっていた、たったこ

れだけのことで、僕はうなだれていた。

 考えてみたら、たったこれだけのことでであった。

 それはいかにも変ではないか。

 そう思った。

 買いかぶっていたと言うが、それはまさしく本当なのか?

 自問してみる。世間の常識、というものは極めて少ない確立をゼロに近似す

るというプロセスを踏んだ後に生まれ落ちた結論のことである。

 それを考えあわせれば、僕が十九年間色々なことがあったにも関らず、それに

気付かずに過ごし、かいかぶり続けていたというのは、ありえない事ではなかろ

うか。

 僕はかいかぶってなんかいない。

 こう考えるという、ちょっとしたことで、たちまち一喜をかもしだす。

 ゆらゆらするのは、どうも僕の性格らしく、これも勘違いではなかろう。

 理に偏りすぎた。

 占いのソフトというもので姓名判断をしたら、文学に○、と出た。

 それまで失いかけていた、やはりかいかぶりであり、僕のような程度の輩は世

にわらわらといて、そういうのはどうせそのまま朽ちるのが落ちだという考えが、

これでにわかに消えた。

 消えてみて、胸を撫で下ろしている自分にふと気付いた後、大いに苦笑し、し

かしやがて失笑した。

 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ

 花を買い来て

 妻と親しむ

 石川啄木の詠んだ歌の一つであった。

 本来なら、ここで終わるはずの文章だった。

 ここで終わらせようと思っていた文章だった。

 しかし今日、またもや暗雲が僕の頭をかすめた。降り仰ぐとやはり、真っ黒な

空にはいつのまにか太陽が昂々と照っているではないか。

 黒い空、町並み、細い風にそよぐ陰だけの痩せほした木々。

 全てが濃淡のある黒と灰色の世界。

 僕はその世界の中で、いや正確には僕を透してのみ広がるその真っ黒に照り付

ける景色の中で、果たして生きてゆけるのだろうか。

 首を少し傾けてみる。

 月曜から金曜まで、授業は続く。学生でなくなり、会社というものに入ればそ

れは仕事に置きかわるだろう。

 それらが辛かったりまたは楽だったりして、僕は歩いたり走ったりしている。

 時々それでも変化をつけようというのかテストがある。

 授業にも、出ない。テストも、受けない。

 社会にも、出ない。

 生きて、ゆけない。

 この世で僕は生きてゆくつもりがない、ように端からは見えるだろう。

 前に自殺未遂をした女優がいた。世間の、嘲笑の的であった。

 世間というのは自分以外という存在を傍観する人々の集合体であった。

 面白ければ笑うし、手鼻をくれたりもする。

 僕は笑われたくないから、笑われないように生きてきた。

 それが、生きてる間、僕が目標としてきたものだ。

 まず、ちゃんと生きようと思わない。

 いや、そこまでは思うのだが、思うようにいかない。

 起きようとしても起きない。

 寝ようとしても寝ない。

 勉強をしようと思っても、一向してない。

 ちゃんと生きようとしたって、ちゃんと生きれるはずがない。

 事実ちゃんと出来てない。生活態度をよく知る人は皆、そろって指摘する。

 ちゃんと生きられないと世間で笑われる。

 親族には怒鳴られる。

 親父にそんなことを言ったって、怒鳴り飛ばされるだけだろうというのは、

明らかに目にみえている。

 またはこんな一文を親父が見れば、いい気分ではなかろう。穏やかでもなか

ろう。

 僕も、穏やかではないのだ。

 山にでも籠って、適当に生きたい。

 畑を耕す事だけはするだろう。腹が減りさえすれば。

 事実、死ぬ直前ぐらいに切羽詰まった時、僕は動いてきている。

 だから、どうにか今日まで生きている。

 山か…。

 ああ、景色よ、

 甘えてある人の声を聞き給え。