2週間ぶりの2連休だ。
5月をなめてた。
という日記を、ここ3,4年書き連ねる。
中学の1学期中間テスト対策も終わり、徐々に結果が帰ってきてる。
うちの教室はかなり好調。
よかった。
息子もだいぶ育つ。
来年は4歳〜乗れるという、何とかというのに乗ろうぜマイサン。
そして久しぶりに12時間寝た。
なって少し息子に変化がある。
苗字をかなり意識してするようになった。
1才ぐらいのとき、苗字+名前+くーん、と呼ぶと「はーい」と答えて可愛かったんだが。
両親が、何かさせたくて敢えてフルネームで呼ぶこと多数。
やがて反応は少なくなり、こちらも飽きていたわけだ。
「おくんは、まるやまです。」みたいなことを言う。
自分が、大勢いる子供の中の1人だということに気づいたんだろうか。
なら幼稚園通って良かったなあと。
何でも自分でやりたがる。というか、先にやられると癇癪を起こして怒る。
「おくんがやりたかったですー、やりたかったですよー。(ですます調)」
ホットケーキを勝手に食べやすいサイズに切られたと言っては泣き、
お茶を勝手に親切につぎ足されたと言っては泣き。
ただ、着替えを勝手に手伝われたと言って泣くことはないな。
ということで、断酒をした。
もう、ほんと、生まれて初めての体験だ。断酒。コーレーグースーすら使わない。
37の誕生日から1滴も飲んでない。
もうすぐ1ヶ月だ。
痩せた。
80.2kgというセンセーショナルな体重が73.2kgまで減った。
両親には「おぉ、まあ、見れるぐらいになったな」と評される。
親が直視できない体型というのがあるんだ。なるほど。
酔うと記憶をなくす。昔からだ。
それで、『7つの習慣』という本に薫陶を受け、以前、「振り返り」をしたことがある。
少なくとも、毎日飲むのは病気らしい。すると僕はここ17年ほどずっと
なんてこった。病気かよ。
しかも病名は「アルコール依存症」になることになる。診断はしてもらってないが。
旦那さんの鴨志田さんという方は戦場カメラマンで、晩年アルコール依存症で入院され、そして癌で亡くなったらしい。
いつしかトイレの本置き場スペースに
が並びまくるようになった。お嫁が買ってくる。
その中にあった。
読んでくと恐ろしい病気だ。
で、診断基準をWebで調べると:
引用:「アルコール依存症の診断基準」
であれば、アルコール依存症の疑いが濃いらしい。
であれば、発症しちゃてるよ。。
Wikipedia(2013.04.18時点)なんかみると、26人に1人ぐらいの割合で、アルコール依存症なんだそうだ。
多っ。
日本の飲酒人口は6,000万人程度と言われているが、このうちアルコール依存症の患者は230万人程度であると言われている。飲酒者の26人に1人がアルコール依存症という計算になり、精神疾患の中でも罹患率が高く、各人の性格や意志にかかわらず誰でもかかる可能性がある病気であるとも言える。なお、この230万人という人数はWHOの算出方法により割り出されたものである。2003年の精神科病院における「アルコール使用による精神及び行動の障害」による入院患者数は2,751人であった。 (Wikipedia – アルコール依存症 概要 より)
わけで断酒断行だ。
# 断酒三日飲まざれば刮目して見よ、というわけで、一日飲まなかったらワンクリックしていくPHPサイト「刮目」を作ろうとしたが時間なく。
依存症体質なんだと思う。
考えたら定食屋でもいつも同じ席に座るもんなあ。
同じ行動をぐんぐん繰り返すことに快感を覚える質なのかも知れない。
ただ、今回の件、職場の人には
すごいね、塾の先生は。こんな僕を褒めてくれる。普段、生徒を褒めて伸ばそうとしている面々。
彼ら曰く、何が偉いって−
「ちゃんと辞められてんじゃん。」
とのこと。確かに。
タバコもパチンコも麻雀も。そして、人類が滅亡でもしない限り不可能と思われていた、酒までも
確かに依存症になりやすい性質のようではあるけど、辞められる。
という、新しいタイプの自信を得る。
一ヶ月が経ち、
今度はノンアルコールビールを日に6本近く飲むようになっているという、
ドラえもんのオチにあったような結末に。
もうすぐ端午の節句なので、大阪のご両親からいただいた人形。
うちの男の子が、こいのぼりで遊んだり戻したりしてる。
画像の挿入が簡単でいいなあ。と実感。
確かに無闇にブログ書きたくなる一日。
婿で家へ入った僕のおじいちゃんは
信心深い人だった。
毎朝、家の仏壇にお茶を進ぜて拝み、
神棚さんへお茶を上げては頭を下げていた。
今年は12/30だけ実家の山梨へ帰った。
● 転職
してからというもの忙しい。
今まで経験のない塾講師の仕事。
中学の数学と理科を勉強し直してる。
● 年収
下がりまくった。
前の職の200万円減。
で、お嫁が。
● 就職
したわけだダメ亭主〜。
いかんせん、共働きしないと食ってけない。
お嫁は、
過去の経験を活かし、老人ホームへ。
正月もクソもない。
1月2日から仕事だ。
僕は1月4日からだが、中学生の入試対策のため
元旦から予習。
● つまり
何が言いたいかというと、
うちへ盗みに入ってもなにも盗れませんよ、という
● ことではなく
休みがない。
それで1日だけ山梨の実家へ帰ったわけだ。
すると、関白亭主のアジア代表
うちの親父は相変わらず、仕事はきっちりやるが、家事全般何もしない。
お袋が、ばーちゃんの介護と仕事と家事と、それから
神仏の掃除をしている。
● ちょうど帰ると
ばーちゃんの部屋の神棚さん(ダルマさんとか置いてあるちょっと高いトコの棚)の
掃除だけ残ってるという。
それをやってくれと言われ、ダスキンを持って脚立に乗る。
● ダルマ掃除
ダルマさんというのはそもそも、
願いごとをするものだ。
願を掛けるときに、まず片眼を入れる。
で、願が叶うと両目を入れる。
神棚にある、両目入りのダルマさんを一体一体、おろしては研く。
● で底面を
見ると、その時々の願いごとが書いてある。
うちのダルマさんは、
信心深いおじいちゃんが買ってきたものばかりだ。
おじいちゃんは、僕の中学の制服姿を見るまでは死ねんなぁと言いながら、
僕が中学へ入学する直前に
65歳で亡くなった。
今から17年も前の話だ。
● おじいちゃん
何しろ優しかった。
それだけは誰よりも強く印象と、僕の原生の記憶に残っている。
僕に、人の優しさを教えてくれた、幼少期の唯一の人だ。
いじめられがちだった僕を庇って、
いじめっ子の家に怒鳴りこみに行ってくれたこともあった。
結局は、根の優しさから、
お菓子やアイスを持って、いじめっ子に
「うちの坊と仲良くしてやってくれないか、お願いします」
と言って帰って来ていたとは、
おじいちゃんが亡くなってから十年以上経ってから、同窓会で
当のいじめっ子から聞いて初めて知った。
お礼を言おうにも、おじいちゃんはもう居ないのだ。
● そんなことを
思い出しながらダルマさんを降ろしては、ダスキンで研く。
時々思い出したように、ダルマさんの底面を見ると、
おじいちゃんの毛筆が書いてある。
● ダルマ掃除
「昭和五十四年、八月、坊とこの家が大きく育ちますように」
「昭和五十五年、元旦、坊が大きくなりますように」
「昭和五十八年、吉日、坊が健康でありますように」
僕は何も知らないでいた。
ダルマさんの裏側にそんなことが書いてあるとは。
そうして育った。
去年も見たはずだった。
去年は別の部屋の、神棚さんの掃除で見た気がした。
そこのダルマさんにも同じように、
「坊が元気で育ちますように」と書かれ、両目を入れられたダルマさんが
据えられてた記憶がある。
● 色々と
苦しいこともあり、それは生きていれば当然でもあり、
時々死んでしまおうかと思うことも多かった30年だが、
そんな風に、
僕のことを見守ってくれていた人が、
あの何もない山梨の実家に確かに居て、
こんな僕の成長を、死ぬ間際まで願ってくれていたことを
改めて感じた。
そして、一体一体、ダルマさんを研きながら
不覚にも涙ぐんでた。
● 今も
しんどいことが多い。
でも十七回忌を過ぎた今も、
僕のことを心配してくれているような気がして
涙がとまらなかった。
おじいちゃんが教えてくれた
底のない人の優しさというものを
僕が死ぬまで
周りの人に分けていければ、など思い、
おじいちゃんからの遅れて届いた置き手紙を一つ一つ読むように
暮れの恒例行事となったこの
ダルマ掃除を淡々としていた。