門配に行く。
桜の花舞い落ちる中、保護者や新入生に、ペン入りのパンフの袋を手渡す。
私塾の営業活動である。
しかしこの花はきれいだ。
願わくば 花のもとにて春しなむ その如月の 望月のころ
というのは西行というお坊さんの辞世の句、かと思いきや
生前の句だそう。
実際に旧暦の2月、釈迦入滅と同じ日に入寂したとWikipediaにある。
この歌を僕は間違えて覚えていて
願わくば 桜舞い散る春死なん ーー
だと思ってた。
この花は一体なんだろう。
昔からこの国にあり、しかもソメイヨシノは全て同じ遺伝子である。
去年の春、同じように同じ陽気の日に
門配に行った覚えがある。
あれからもう1年経った。
そう、この花を見ると
もう1年たったのだなという思いと、もう散ってしまうんだなという思いが交錯する。
だからこの国の人々は、この花を愛で育んできた。
今より平均寿命がずっと短かった頃、
この国の人々、特に成人とされていた者たちは
いつしかこの花を見ながら、酒をくべるようになる。
そこには、この花に向けた視線とともに
1年生きた自分というものへの感慨があっただろうか。
そこには、もう1年先に自分が在るか否かという
怖れ、戦き、生命への畏敬の念というものがあったのだろうか。
そうして花の下、時には夜桜の下、青い月を見上げると、自然
杯は口へと傾く。
ーーー
この日の文は2014.4.7に近隣の中学校の入学式に合わせ、
塾のチラシを配りに行った帰りに、教室で、窓の向こうの青空に映える
小田急線沿いの桜の白く枝の揺れる様を遠く見ながら書いたものを転載した。