婿で家へ入った僕のおじいちゃんは
信心深い人だった。
毎朝、家の仏壇にお茶を進ぜて拝み、
神棚さんへお茶を上げては頭を下げていた。
今年は12/30だけ実家の山梨へ帰った。
● 転職
してからというもの忙しい。
今まで経験のない塾講師の仕事。
中学の数学と理科を勉強し直してる。
● 年収
下がりまくった。
前の職の200万円減。
で、お嫁が。
● 就職
したわけだダメ亭主〜。
いかんせん、共働きしないと食ってけない。
お嫁は、
過去の経験を活かし、老人ホームへ。
正月もクソもない。
1月2日から仕事だ。
僕は1月4日からだが、中学生の入試対策のため
元旦から予習。
● つまり
何が言いたいかというと、
うちへ盗みに入ってもなにも盗れませんよ、という
● ことではなく
休みがない。
それで1日だけ山梨の実家へ帰ったわけだ。
すると、関白亭主のアジア代表
うちの親父は相変わらず、仕事はきっちりやるが、家事全般何もしない。
お袋が、ばーちゃんの介護と仕事と家事と、それから
神仏の掃除をしている。
● ちょうど帰ると
ばーちゃんの部屋の神棚さん(ダルマさんとか置いてあるちょっと高いトコの棚)の
掃除だけ残ってるという。
それをやってくれと言われ、ダスキンを持って脚立に乗る。
● ダルマ掃除
ダルマさんというのはそもそも、
願いごとをするものだ。
願を掛けるときに、まず片眼を入れる。
で、願が叶うと両目を入れる。
神棚にある、両目入りのダルマさんを一体一体、おろしては研く。
● で底面を
見ると、その時々の願いごとが書いてある。
うちのダルマさんは、
信心深いおじいちゃんが買ってきたものばかりだ。
おじいちゃんは、僕の中学の制服姿を見るまでは死ねんなぁと言いながら、
僕が中学へ入学する直前に
65歳で亡くなった。
今から17年も前の話だ。
● おじいちゃん
何しろ優しかった。
それだけは誰よりも強く印象と、僕の原生の記憶に残っている。
僕に、人の優しさを教えてくれた、幼少期の唯一の人だ。
いじめられがちだった僕を庇って、
いじめっ子の家に怒鳴りこみに行ってくれたこともあった。
結局は、根の優しさから、
お菓子やアイスを持って、いじめっ子に
「うちの坊と仲良くしてやってくれないか、お願いします」
と言って帰って来ていたとは、
おじいちゃんが亡くなってから十年以上経ってから、同窓会で
当のいじめっ子から聞いて初めて知った。
お礼を言おうにも、おじいちゃんはもう居ないのだ。
● そんなことを
思い出しながらダルマさんを降ろしては、ダスキンで研く。
時々思い出したように、ダルマさんの底面を見ると、
おじいちゃんの毛筆が書いてある。
● ダルマ掃除
「昭和五十四年、八月、坊とこの家が大きく育ちますように」
「昭和五十五年、元旦、坊が大きくなりますように」
「昭和五十八年、吉日、坊が健康でありますように」
僕は何も知らないでいた。
ダルマさんの裏側にそんなことが書いてあるとは。
そうして育った。
去年も見たはずだった。
去年は別の部屋の、神棚さんの掃除で見た気がした。
そこのダルマさんにも同じように、
「坊が元気で育ちますように」と書かれ、両目を入れられたダルマさんが
据えられてた記憶がある。
● 色々と
苦しいこともあり、それは生きていれば当然でもあり、
時々死んでしまおうかと思うことも多かった30年だが、
そんな風に、
僕のことを見守ってくれていた人が、
あの何もない山梨の実家に確かに居て、
こんな僕の成長を、死ぬ間際まで願ってくれていたことを
改めて感じた。
そして、一体一体、ダルマさんを研きながら
不覚にも涙ぐんでた。
● 今も
しんどいことが多い。
でも十七回忌を過ぎた今も、
僕のことを心配してくれているような気がして
涙がとまらなかった。
おじいちゃんが教えてくれた
底のない人の優しさというものを
僕が死ぬまで
周りの人に分けていければ、など思い、
おじいちゃんからの遅れて届いた置き手紙を一つ一つ読むように
暮れの恒例行事となったこの
ダルマ掃除を淡々としていた。