日別アーカイブ: 2005年12月31日, 01時53分

ダルマ掃除

婿で家へ入った僕のおじいちゃんは
信心深い人だった。

毎朝、家の仏壇にお茶を進ぜて拝み、
神棚さんへお茶を上げては頭を下げていた。

今年は12/30だけ実家の山梨へ帰った。

● 転職

してからというもの忙しい。
今まで経験のない塾講師の仕事。

中学の数学と理科を勉強し直してる。

● 年収

下がりまくった。
前の職の200万円減。

で、お嫁が。

● 就職

したわけだダメ亭主〜。

いかんせん、共働きしないと食ってけない。
お嫁は、
過去の経験を活かし、老人ホームへ。

正月もクソもない。

1月2日から仕事だ。

僕は1月4日からだが、中学生の入試対策のため
元旦から予習。

● つまり

何が言いたいかというと、
うちへ盗みに入ってもなにも盗れませんよ、という

● ことではなく

休みがない。

それで1日だけ山梨の実家へ帰ったわけだ。

すると、関白亭主のアジア代表
うちの親父は相変わらず、仕事はきっちりやるが、家事全般何もしない。

お袋が、ばーちゃんの介護と仕事と家事と、それから
神仏の掃除をしている。

● ちょうど帰ると

ばーちゃんの部屋の神棚さん(ダルマさんとか置いてあるちょっと高いトコの棚)の
掃除だけ残ってるという。

それをやってくれと言われ、ダスキンを持って脚立に乗る。

● ダルマ掃除

ダルマさんというのはそもそも、
願いごとをするものだ。

願を掛けるときに、まず片眼を入れる。

で、願が叶うと両目を入れる。

神棚にある、両目入りのダルマさんを一体一体、おろしては研く。

● で底面を

見ると、その時々の願いごとが書いてある。

うちのダルマさんは、
信心深いおじいちゃんが買ってきたものばかりだ。

おじいちゃんは、僕の中学の制服姿を見るまでは死ねんなぁと言いながら、
僕が中学へ入学する直前に
65歳で亡くなった。

今から17年も前の話だ。

● おじいちゃん

何しろ優しかった。
それだけは誰よりも強く印象と、僕の原生の記憶に残っている。

僕に、人の優しさを教えてくれた、幼少期の唯一の人だ。

いじめられがちだった僕を庇って、
いじめっ子の家に怒鳴りこみに行ってくれたこともあった。

結局は、根の優しさから、
お菓子やアイスを持って、いじめっ子に

「うちの坊と仲良くしてやってくれないか、お願いします」

と言って帰って来ていたとは、
おじいちゃんが亡くなってから十年以上経ってから、同窓会で
当のいじめっ子から聞いて初めて知った。

お礼を言おうにも、おじいちゃんはもう居ないのだ。

● そんなことを

思い出しながらダルマさんを降ろしては、ダスキンで研く。

時々思い出したように、ダルマさんの底面を見ると、
おじいちゃんの毛筆が書いてある。

● ダルマ掃除

「昭和五十四年、八月、坊とこの家が大きく育ちますように」

「昭和五十五年、元旦、坊が大きくなりますように」
「昭和五十八年、吉日、坊が健康でありますように」

僕は何も知らないでいた。
ダルマさんの裏側にそんなことが書いてあるとは。

そうして育った。

去年も見たはずだった。
去年は別の部屋の、神棚さんの掃除で見た気がした。

そこのダルマさんにも同じように、
「坊が元気で育ちますように」と書かれ、両目を入れられたダルマさんが
据えられてた記憶がある。

● 色々と

苦しいこともあり、それは生きていれば当然でもあり、
時々死んでしまおうかと思うことも多かった30年だが、
そんな風に、
僕のことを見守ってくれていた人が、
あの何もない山梨の実家に確かに居て、
こんな僕の成長を、死ぬ間際まで願ってくれていたことを
改めて感じた。

そして、一体一体、ダルマさんを研きながら
不覚にも涙ぐんでた。

● 今も

しんどいことが多い。
でも十七回忌を過ぎた今も、
僕のことを心配してくれているような気がして
涙がとまらなかった。

おじいちゃんが教えてくれた
底のない人の優しさというものを
僕が死ぬまで
周りの人に分けていければ、など思い、
おじいちゃんからの遅れて届いた置き手紙を一つ一つ読むように
暮れの恒例行事となったこの
ダルマ掃除を淡々としていた。